その土地を知るためにはその土地の歴史を知ることが必要不可欠だ。そこで「MZF History」では魔剤府大学の全面協力の下、魔剤府の歴史を複数回に分けて紹介していく。謎多き都市・魔剤府の歴史を解明していこう。
「始まり」が無ければ始まらない
地球という惑星には約46億年の歴史があり、宇宙には138億年ほどの歴史が存在する。この場合、「地球」の歴史を記すのに46億年よりはるか前から始めることは稀であろう。壮大な宇宙の話よりはもう少しスケールは小さいが、「魔剤府」について記すのにも似たような問題が生じた。
この問題を解決するため、魔剤府大学の諸先生方と議論を重ねたところ、最終間氷期から始めるのが適当との結論に至った。(※1)それより前については日本の歴史、もしくは地球の歴史を調べるなどして欲しい。それでは、最終間氷期から魔剤府の歴史を解明していこう。
この理由について、議論の輪に入っていた魔剤府大の時原教授は「魔剤府の周辺地域の形が大まかではあるが現れたのが最終間氷期だからです。これより前に遡ると魔剤府、もっといえば北陸地域が一体どこを示しているのかといったことが不明瞭なのです。」と説明した。厳密に言えば中期更新世(チバニアン)あたりである程度の形はつかめるようになっているのだが、そこまで含めるのは冗長であると意見が一致したとのことである。
最終間氷期の魔剤府近辺では、造盆地運動に近い運動が活発に続いていた。すなわち、現在の平野部で沈降が発生するとともに周辺の山地が隆起していったのである。(※2)
この運動により、現在の金総平野(魔剤府から祈水までの平野。地図1で海に沈んでいる部分だ。)は周辺を山で囲まれた「海底盆地」となっている。結果として、現在の金総平野は「堆積盆地」という河川からの土砂などを堆積しやすい環境となった。ここから最終氷期に至るまで、金総平野には多くの堆積物が堆積していく。その堆積は厚い地層として現在の金総平野を支えている。
造盆地運動は関東平野を生成した主な要因(関東造盆地運動)としても知られている。無論、魔剤府地域のそれは関東地方のそれに比べれば小規模である。
とはいえ、金総平野の形成と関東平野の形成にはそのほかの類似点も多い。気になる方は時原教授の著書などが参考になるだろう。
最終氷期の海は最終間氷期に比べると100m程度低下した。これは現在よりも低い水位であり、熱津や魔剤府のあたりでは今と海岸線の位置が大きく違うのが見て取れるだろう。
さて、先述した運動により堆積した土砂は河川の流路に大きな影響を与えた。その中でも特に大きな影響を受けた河川は祈水川であろう。
通せんぼ
一般に、川が運ぶ土砂の量は河川の水量と深い関係がある。そのため、金総平野に流れる河川の中でも雲雀川は特に土砂を運搬していた。土砂を運べば当然河口付近(この河口とは最終間氷期の河口である。)を中心として土砂の堆積が進み、河口付近は標高が高くなる。この影響が祈水川の流路に影響を与えた。祈水川は山を出ると平野を横断し旧・向島(※3)にへばりつくようにして雲雀川と合流している。
向島は最終間氷期にみられた西の島のことである。現在は島ではないが、向川という河川名にその名を残している。
ところで、金総平野は北側と南側で海と接している。そのため、河口を大きく二つに分ける分水嶺が平野内、もっといえば向川と祈水川の間に存在する。この分水嶺は向川と祈水川による堆積作用により生まれたものだ。現在でも若干ではあるが標高が高いことを感じ取ることができる。行く機会があれば是非確認してほしいものだ。
縄文海進の時代の海は最終間氷期のそれと水位においてあまり変わりが無い。それにもかかわらず随分と陸地が増えた。これはもちろん川の堆積作用によるものである。特に向川・祈水川の堆積は明瞭で向島は本州と繋がっている。 これにより一つの「海峡」から二つの湾へと姿を変えた金総平野。北の湾は古祈水湾、南の湾は古金総湾と呼ばれている。
縄文海進が過ぎると、海退により現在は二つの湾も消滅。ここに金総平野が形成された。平野は人口の集積地として魔剤府や祈水といった都市を支えている。
現在の地形が生まれるまでにはこのような背景があった。もちろん、これから先も地形は数万年単位で変化していくだろう。もっとも、我々には関係の無い出来事と言えばそれまでだ。
さて、MZF Historyの初回は魔剤府というよりは金総平野の歴史について紹介した。でもご心配なく。次回以降は魔剤府について詳細に掘り下げる。